我々日本人は、つくづく腹に重心を求めて来た民族だと思う。
    
「腹を決める」
「腹を割って話す」
「腹を抱えて笑う」
「腹を据える」
「片腹痛い」
「腹落ちする」
「腹に納める」
(辞書を引かなくてもこれだけ出てくる)
etc...

日本語の中に、どれだけ「腹」を使った表現が出てくるだろう。それだけ「腹」に意識を向け、「腹」を大切にしてきた民族なのだ。
    
僕は思う。「腹を大切にするってなんだ?」

そもそも「何かを大切にする」ってどういう事だろうか?それは、常にその「何か」を意識して、面倒をみてあげる。時には厳しく鍛えてあげて、時には横目で見ながらも自由を与えてあげる。その「何か」が自立(自律)できるように。。。
(あ、子育て笑)

まぁ、「意識」から始まって「自立(自律)」まで育てあげれば“大切にする”を成し遂げた、という事になるのではないだろうか?
    
前置きは長くなったが、そんな想いで日本人は腹を育てて来た。

これは余談だが、「腹」は「肚」と表す。臓器を表す「月(にくづきへん)」に「土」。土は陰陽五行でいうところの「グラウンディング」「土壌」「地球」を表す。我々人類の生命の源とも言えるこれらを、肉体で求めるとするならば、それは「肚」だ。
(そー言えば我々もお母さんの肚の中で育たなかったっけ?)

私は長年トレーナーをやって来て、思うことがある。「肚」というのは、非常に「物質的」で「現実的」だな、と。肉体という物質。観測する事ができて、触る事ができる。その証拠に、、、

ほらっ!おへその下のところ、押してごらんよ!☺️さわれるでしょ!☺️ほらっ!力入れてごらんよ!☺️力むの感じられるでしょ!☺️

物質の世界観から非物質の世界へ、と言うのが風の時代の一つのあり方のような気がするが、その面からいうと、精神世界の1番末端の存在。風の時代から1番遠ざってしまいそうな「土」の部分を伝えようとしているのが私です😂
    
ただし、物質的な事は悪い事ばかりじゃない。
    
と言うのも、「観測できる」「触れられる」ということは、理解しやすく、実感が出やすいからだ。
        
ほらっ!おへその下のところ、押してごらんよ!☺️触れるでしょ!☺️ほらっ!力入れてごらんよ!☺️力むの感じられるでしょ!☺️(2回目w)分かりやすいじゃん!

トレーニングをすればするだけ、身体に生身の感覚が起こる。それはある種の快感なのか、痛みなのかは分からないけど。“現実的に”起こるのだ。
    
地球上で起こる事が現実だとするならば、あなたの肉体が動かなければ、現実的に行動した事にならない。
    
あるいは近い未来、映画マトリックスのように、脳内で全て完結されるかも知れないが、今はまだそうでは無い。
    
結局何が言いたいのかというと、実際に身体を動かす時に、この“肉体"での重心は肚にあった方が安定的で、ブレることなく正しく動ける、という事だ。
 
最初に伝えたように「大切にする」と言う事の最終的な産物が「自立(自律)」であるならば、肉体を扱う上での「肚」は、あなたが意識してても、"してなくても"、常に自立して働かなくてならない。そうでなければ大切にしたことにはならない。また、そのような肉体作りが望ましい。

ではもし肚重心の肉体が自律的に動き出したとして、それを扱うのは誰か?

言い換えると、その「自立した肉体」を扱う時の意識の重心はどこに置くのか?
    
何千人ものトレーニングをしていると、気づくことがある。身体は下腹部中心に動いているが、人によっては『鳩尾(みぞおち)』『胸』『喉』『眉間』あたりに意識を持っていった方が身体がスムーズに動く。

身体の重心は丹田と言われる下腹部あたりなのに、意識の重心は違うところにある。そしてそのほうが心地よく動ける・・・これはいったい何なのか・・・??
   
少なくともここで言えることは、『肉体の重心』と『意識の重心』は違うところにあるということ。言い換えれば、肉体と意識は必ずしも一緒ではないということ。

ほら、肉体と意識が少しずつ離れてきたでしょ。

大変周りくどい文章になってしまったが、結局伝えたいのは、肉体の”土”の部分である”肚”を練ることで、意識や精神の世界観が見えてくるということ。(ここにお集まりの皆様は、とっくに見えてるか・・・)

意識や精神世界の目覚めの方法としては、非常に泥臭い方法だけど、その大いなるヒントは『肚』にあって、それに気づいていた我々日本人はある意味、超、超、超ーーー現実的な民族なのかもしれない。

さあ育てよう!肚!

※注
風の時代に”土を伝える”という職業を選んでしまった自分を無理やり説得させようと思って書いた記事ではございません。